2008年8月7日(木)赤塚不二夫告別式 タモリによる弔辞

yAm2008-08-07

弔辞。


8月の2日に、あなたの訃報に接しました。6年間の長きにわたる闘病生活の中で、ほんのわずかではありますが回復に向かっていたのに本当に残念です。我々の世代は、赤塚先生の作品に影響された第一世代といっていいでしょう。あなたの今までになかった作品やその特異なキャラクターは、私達世代に強烈に受け入れられました。10代の終わりから我々の青春は赤塚不二夫一色でした。


何年か過ぎ、私がお笑いの世界を目指して九州から上京して、歌舞伎町の裏の小さなバーでライブみたいなことをやっていたときに、あなたは突然私の眼前に現れました。その時のことは今でもはっきり覚えています。「赤塚不二夫がきた。あれが赤塚不二夫だ。私を見ている。」この突然の出来事で、重大なことに私はあがることすらできませんでした。終わって私のとこにやってきたあなたは、「君は面白い。お笑いの世界に入れ。8月の終わりに僕の番組があるからそれに出ろ。それまでは住むとこがないから私のマンションにいろ」と、こう言いました。自分の人生にも、他人の人生にも、影響を及ぼすような大きな決断をこの人はこの場でしたのです。それにも度肝を抜かれました。それから長い付き合いが 始まりました。しばらくは毎日新宿のひとみ寿司というところで夕方に集まっては、深夜までドンチャン騒ぎをし、いろんなネタをつくりながらあなたに教えを受けました。いろんなことを語ってくれました。お笑いのこと、映画のこと、絵画のこと。他のことも色々とあなたに学びました。あなたが私に言ってくれたことは、未だに私にとって金言として心の中に残っています。そして仕事に生かしております。


赤塚先生は本当に優しい方です。シャイな方です。麻雀をする時も、相手の振り込みで上がると相手が機嫌を悪くするのを恐れて、ツモでしか上がりませんでした。あなたが麻雀で勝ったところを見たことがありません。その裏には強烈な反骨精神もありました。あなたは全ての人を快く受け入れました。そのために騙されたことも数々あります。金銭的にも大きな打撃を受けたこともあります。しかし、あなたから後悔の言葉や相手を恨む言葉を聞いたことがありません。


あなたは私の父のようであり、兄のようであり、そして時折見せるあの底抜けに無邪気な笑顔は、はるか年下の弟のようでもありました。


あなたは生活すべてがギャグでした。たこちゃんの葬儀のときに、大きく笑いながらも目からはぼろぼろと涙がこぼれ落ち、出棺のとき、たこちゃんの額をピシャリと叩いては「このヤロウ逝きやがった」と、また高笑いしながら大きな涙を流していました。あなたはギャグによって物事を動かしていったのです。


あなたの考えはすべての出来事存在をあるがままに前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は、重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、また時間は前後関係を断ち放たれて、その時その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。すなわち、「これでいいのだ」と。


今、2人で過ごしたいろんな出来事が、場面が、思い浮かばされています。軽井沢で過ごした何度かの正月、伊豆での正月、そして海外へのあの珍道中。どれもが、ほんとうにこんな楽しいことがあっていいのかと思うばかりのすばらしい時間でした。最後になったのが、京都五山送り火です。あの時のあなたの柔和な笑顔は、お互いの労をねぎらっているようで一生忘れることができません。


あなたは今この会場のどこか片隅でちょっと高いところから、あぐらをかいて肘をつきニコニコと眺めていることでしょう。そして私に、「お前もお笑いやってるなら、弔辞で笑わ せてみろ」と言っているに違いありません。あなたにとって、死も一つのギャグなのかもしれません。私は人生で初めて読む弔辞が、あなたへのものとは夢想だにしませんでした。


私はあなたに生前お世話になりながら、一言もお礼を言ったことがありません。それは肉親以上の関係であるあなたとの間に、お礼を言うときに漂う他人行儀な雰囲気がたまらなかったのです。あなたも同じ考えだということを他人を通じて知りました。しかし、今お礼を言わさせていただきます。


赤塚先生、本当にお世話になりました。ありがとうございました。私もあなたの数多くの作品のひとつです。


合掌。


平成20年8月7日、森田一義