売春窟に生まれついて→未来を写した子どもたち - ベイエリア在住町山智浩アメリカ日記

http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20080920

(略)
もうひとつ。


『未来を写した子どもたち』とは直接、何も関係ないけどさ、ムカつくから言わせてくれ。


この映画はアカデミー賞まで獲ってるし、アメリカではDVDまで出てるのに、配給会社が決まるまで、日本の映画評論家は誰一人として話題にしなかった。文芸評論家だったら、普通、芥川賞受賞作品には目くらい通すだろう。あんたら、試写室でタダで見せてもらえる映画以外は観ないのか?『ホテル・ルワンダ』のときも、『ホットファズ』のときもそうだった。配給会社が試写をやるまで、誰も見やしないのだ。英語版のDVD出てるのに。徹底的に受身。


日本で映画評論家とか映画ライターとか称してる連中には、日本の映画会社が配給する映画をタダで試写室で観せてもらって、ちまちました感想文書いてるだけのが多すぎる。


評論家といいながら、映画観ただけの印象批評ばかり垂れ流して、自分で資料を調べようともしないし、過去の関連作品を探して観ようともしない、作り手に直接会って質問しようともしない、撮影や編集の現場は経験したこともない、カメラの仕組みも知らない、シナリオやコンテも勉強したことがない、映画は観るが、歴史や政治や経済のことはこれっぽちも知らない安楽椅子ライターが山ほどいる。


だから、アメリカが善意からタリバンを育ててしまった愚行を皮肉ったブラック・コメディ「チャーリー・ウィルソンズ・ウォー」を観ても「アメリカ万歳の映画だ」などと正反対のことを堂々と「TVブロス」に書いちまうし、「エデンより彼方に」を観てもダグラス・サークパスティーシュだと気づかないし、シャマランの映画がパクリだとも知らず、今のハリウッド映画がどういう金の流れで作られているのかもまるで知らないんだよ。


「評論」家といっても、資料の読み込みと調査と考察と仮説と検証と独自の結論が必要な「論文」など一回も書いたこともなく、一生に一度も後世にも読み継がれる本を著すこともなく、雑誌にクズみたいな感想をちまちま書き散らして小銭を稼いで、誰にも惜しまれず、誰にも影響を与えることなく死んでいく。


その人生に意味はあるのか?


何のために生まれてきたんだ?


ただの寄生虫だ!


そもそも現在の映画ライターは、漫画家や小説家、エッセイストと違い、競争と無縁の存在だ。雑誌でも読者アンケートによって淘汰される対象にならない。ファンを持っていなくても、編集者と知り合いであれば仕事がもらえるという、コネだけで生きている職業なのだ。現在、書き手の名前で読者を呼べる映画評論家、読者を映画館に誘うことができる映画評論家は数えるほどしかいなくなってしまった。ほとんどの読者は映画コラムの書き手なんぞ、これっぽちも意識しちゃいない。その質なんか誰も問題にしない。人気があろうがなかろうが問題にならない。早い話、編集者とのつながりさえあれば仕事がもらえる。批評はするけど、その批評は誰にも批評されない。何を書いたところで、反応はせいぜい映画会社の宣伝マンから「扱ってくれてありがとうございます」と挨拶されるていど。誰も動かせない、誰も感動させられない。のれんに腕押し、ぬかに釘!そんな、手ごたえのない仕事、いくらやってても空しくないか?


だったら、今すぐ、意味のない試写室通いをやめろ。基礎もできてないのにいくら数見たって意味ないんだ。過去の大事な作品を観て、それについて考えてから、それについて書かれた文献を読んで自分の映画を観る目を切磋琢磨しろ。誰でも最初は、独りよがりな解釈をしたりするものなのだが、優れた批評や作り手自身の言葉とつきあわせて自分の批評を添削するうちに、だんだんと映画の見方が上達していくものだ。それから、誰にもマネできない独自のテーマ、独自の視点、独自のタッチを確立しなければならない。単に文体でなく、中身のオリジナリティだ。レトリックなんてクソの役にも立ちゃしないのだ!それを真剣にやってたら試写室通いなんかしてる暇はないはずだ。何もわからない人間がいくら一人で考えたって、感想以上のものは絶対に出てこないんだ。そんな感想に商品としての価値があるか?だって、感想なんかガキだって持てるんだぜ!


そして、試写室では観られない映画を探すんだ。宝を探してみんなに教えることが、評論家の最も基本的な存在意義なんだから。与えられた映画だけ観てるんじゃねえよ。ブロイラーじゃないんだから、自分で映画を見つけ出せよ!