小沢健二 / 無色の混沌

僕の友人で、二人姉妹なのに、生まれてから一度も親に、「お姉ちゃん」と言われたことがないという人がいる。二人とも「何々ちゃん」と名前を呼ばれるだけで、そうなると妹の方も「お姉ちゃん」とは呼ばなくて、名前で呼び合うことになる。そう言えば彼女にはいわゆる「お姉さんらしい感じ」はない。「お姉さん」「お兄ちゃん」と呼ばれ続けることは、その人の性格に影響するらしい。「兄」とか「弟」とか言うのは、人間が持って生まれた資質ではなくて、社会的に規制された結果、というか周囲がそれを強要しているのである。
人は分ける。上と下。右と左。陰と陽。善と悪。とにかく分けたがる。自分自身さえも分けてしまう。不良か優等生か。運動神経がいいか悪いか。人間嫌いか社交家か。完全にどちらかである人なんて絶対にいなくて、僕らは混然とした存在なのに、混然を受け入れるのってのは難しいから、めんどくさがりの脳は、あるいは機能は、それ自体をあるがままに受け入れないで、白黒つけてゆく。そうすると物事は、すごく簡単になるから。ボケとツッコミ。
懐かしいアズテック・カメラの、「ナイフ」という曲は、この世にはナイフがあって、物事を二つに分断しつづけている、ということを歌っている。
何もない空間である世界を、ナイフで切った、上と呼ばれる部分にあるとされていること。寛容、優雅さ、などなど。僕は二人兄弟の弟だが、兄、正しくは「淳ちゃん」を。僕は「お兄ちゃん」と呼んだりもしたので、その度に彼は、上の部分に属されていることであらねばならないと思ったかも。僕は「淳ちゃん」をそう呼びながら、下の部分に属すことになっている、快活さ、自由さ、などなどを意識したのかも。えー、全く無意識に。
二人でいれば、そのまったくくだらないナイフは、混然として美しい世界をどんどん切ってよこす。そして切り取られた世界は君の皿の上で、干からびて死んでしまって、勘定書きの上に、その名前だけが残るのだ。「優雅さ−一つ。」そんな風に記されていいものは、この世の中には一つもない。カレーが、茹でたニンジンと、いためたタマネギと、御飯と、といった具合に出されるのと同じだ。それには何の意味もない。
二人といえば、フリッパーズ・ギターの話もしよう。これも今のカレーの例えと同じこと。ナイフで分けてもなんの意味もない。二人で何となく決まっていたのは、リードボーカルは小山田が歌う。歌詞とかタイトルは僕が作る。そのくらいのことで、あとは混然としていた。二人の共同の名前でクレジットしたが、作曲では、僕が一人でしたのは、「フレンズ・アゲイン」「恋とマシンガン」「カメラ!カメラ!カメラ!」「全ての言葉はさよなら」。小山田一人なのが、「ヘアカット100」「偶然のナイフ・エッジ・カレス」「ビッグ・バッド・ビンゴ」「午前3時のオプ」「ラテンでレッツ・ラブ」あと、「ラブ・トレイン」「パパ・ボーイ」ってのもあった。他の曲は全部二人で何日も一緒に、どっちかの家で、夜中にコンビニ行ったりしながら、ラララーとか歌って作った。青臭い話とかしながら‥。
で、二人でいれば混然としていられるのだが、人目にさらされるとそうは行かない。二人っていうくらい、微妙な関係はない。それは他の誰かが、「あいつこう言ってたよ。」というだけで、余裕でグラつく関係じゃないかと思う。そして二人でいる人たちにすかさず貼られるレッテル−「仲が悪い」。オーケー。世の中のすべての二人組を代表して言っておこう。「お前らに言われる筋合いはない。」以上。
二人、というのは微妙である。男同士の場合(女同士であったことがないから判らない)、あまり話が通じてしまうというのも考えもので、微妙な気恥ずかしさみたいなものが発生したりする。本当に親しい友だちとは、大勢でいる時には意外に話さなかったりして、他人を反射して話をしたりして、二人でいると突然変に盛り上がったりして、そういうことは結構おもしろい。そういう友だちが何人かいます。
男と女、となると、みんな御存知の微妙さで、ただの友達の女の子と、なぜか一緒のホテルの部屋に泊まることになってしまった場合(状況はいくらでも考え得る)。恋人同士に、第三者がポンと言った一言で、恋愛がガラガラと崩壊するさま(この間ポンと言ってしまった)。
AとB 二人がいる所に、CがAに、何かBの知らない重要なことを言う。Aは否定するが、Bの中に生じた疑念は消えない。Aが肯定しても、Bは「何で言わないんだよ」と思ったりする。それが良かったり悪かったり。しかも二人という関係は、どちらかが回路を閉じれば、それで終りである。恋愛や結婚が、三人でするものならば、また違うだろうに、三人一緒にベッドに入るのは、いまのところごく限られた人々だけである。
認識ってのは、普通あまりにも二者択一で、ほんとくだらない。それは磁石の針のように、こらえきれずにどちらかの極を向いてしまう。世界が半分ずつ見えなくなっていくだけなのに‥。マスメディアってのは、人間の脳の拡大図みたいなものだから、その中にいると、人間の癖が良く判る。
けどそういうこと全ては、どうでもいいことだ。「ラブリー」とか、「いちょう並木のセレナーデ」といった歌を歌うことにくらべれば。これは、僕自身の話。
さて、それでは今度の「ある光」。「ある光」とは、「心の中にある光」。
光は全ての色を含んで未分化。無色の混沌。それはそれのみとして、分けられずにあるもの。切り分けられていない、混然とした、美しく大きな力。それが人の心の中にある。
僕らの体はかつて星の一部だったと言う。それが結合して、体が在って、その心が通じ合ったりするのは、あまりにも驚異的で、奇跡的で、美しい。
そんな手紙をさっき書いたんだけど、そんなことを時には本当に思ったりします、僕は。(映画見て、その気になっていた。)

'97.12.18。「Olive」連載『DOOWUTHALIKE』より。